7世。再生利用の達人。
奉天祐(ほうてんゆう)は6世奉君弼(ほうくんひつ)の子で、生没年不明である。特筆すべき功績としては、高麗の忠粛王(ちゅうしゅくおう)が元朝に入国して不在の間に、瀋王の王暠(おうこう)が謀反を企てようとした際、奉天祐は右副代言(うふくだいげん)として世子(後の忠恵王)を支えて、忠節を尽くして輔佐したことである。
1325年に忠粛王が4、5年ぶりに帰国し、その忠節と輔佐の功績を高く評価されて、1327年に一等功臣と認められた。忠勤節義同徳賛化保定功臣(ちゅうきんせつぎどうとくさんかほていこうしん)の臣号を授与され、さらに金紫光禄大夫(きんしこうろくたいふ)、壁上三韓三重大匡(へきじょうさんかんさんじゅうたいきょう)、判都僉議政丞(はんとせんぎせいじょう)の地位を与えられ、河陰府院君に封じられた。
1344年6月、忠穆王(ちゅうもくおう)のために書筵(しょえん)が設置され、臣下48人に日を定めて交代で侍講させることにし、この時に密直副使となり参加した。同年10月には知密直司事となった。
また、忠孝の双方に優れており、祖先に対する行いが篤実であった。他所で述べた通り、始祖発祥地である河陰の山頂に奉天台を築き、祖先への儀式を行った。そしてこの山麓に奉恩寺を建立し、祖先の冥福を祈願した。さらに始祖である河陰伯の石像を建立して(これらすべて再利用の可能性が濃厚であるが)、後世の子孫が永遠に祖先を忘れないようにした。その孝行のすべてを挙げることが難しいほど、多くの偉業を成し遂げた。
逝去した際には文謙という諡号が与えられた。墓所は京畿道長湍郡東道面沙也谷(黄海北道長豊郡沙是里に当たる)にある古陵の特に良い場所で、石の囲いで四方を取り囲み、石像1基、石人2基、光明灯1基、血石1基、神道碑1基、7間の祭閣、位田9斗を配していた。

忠粛王:第27代高麗王(在位1313年〜1330年、1332年〜1339年)。
瀋王の王暠:中国の遼河一帯と高麗北部の一部を管轄していた高麗王族で、何度も王位を狙った。
右副代言:王の命令を伝達し、必要に応じて王に助言し補佐する高官。
忠勤節義同徳賛化保定功臣:おそらく称賛された内容を表した固有の呼び名と思われる。
金紫光禄大夫:正三位の唐名。
壁上三韓三重大匡:高麗における正一品の呼び名。
判都僉議政丞:最重要な政策決定機関で、主要な決定を行い、政務全般を取り仕切る役割を担う高官。
河陰府院君:河陰という地名に基づく爵位。
忠穆王:第29代高麗王(在位1344年〜1348年)。
書莚:王などに学問を教える施設。
密直副使:機密事項を扱い、王に直接仕える部門の次官。
知密直司事:機密事項を扱い、王に直接仕える部門の長官。
血石:碧玉の一種で酸化鉄が混じったもの。おそらくブラッドストーンのこと。
神道碑::墓への道標となる石碑。
と、素晴らしい経歴のご先祖様であったようであるが、やはり光あるところ影ありである。次の奉天祐②に続く。