奉天祐③

奉天祐

1343年6月、忠恵王(ちゅうけいおう)は新しい宮殿である北殿を築造した折り、これを満たす私的な奴婢を集めるよう臣下に命じた。

その際に閔渙(びんかん)が人々から四種類の奴婢(ぬひ)を徴収するよう進言した。四種類とは上位の貴族などに献上された者、自発的に奴婢となった者、先王から下賜された者、売買された者のことである。

王は閔渙の進言を容れて担当させ、四種類の奴婢を急いで取り立てさせた。これにより、富豪家が所有する、容姿が美しい女奴隷はすべて奪われて北殿に召し上げられ、平民のように紡績、つまり機織りをさせられた。権準(けんじゅん)や奉天祐、権適(けんてき)の家が特にひどく被害を受けたが、閔渙に賄賂を贈った者だけがその被害を免れることができた。

忠恵王:第28代高麗王(在位1330年〜1332年、1339年〜1344年)。
奴婢:奴は男奴隷、婢は女奴隷。

この忠恵王は元々品行が悪かったが、王に即位するや酒と姦淫に明け暮れ、稀代の放蕩王として悪名が高く、後世の評価が極めて低い人物である。北殿を建設する際でも民衆から労働力や建築資材など接収したようだ。私的な欲望のために権力を乱用して国政を歪め、社会も混乱状態であった。

そういう状況下、鼻が利くのだろうか。奉天祐は身を隠して政治の執務に参加しなかった。しかし行方をくらましている最中に、自分が所有する女奴隷はことごとく奪われてしまった。閔渙に賄賂を渡さなかったからである。

隠れていたので婢を収奪されたことを知らなかったのか、あるいは賄賂の金品を差し出すことを惜しんだのか不明だが、売官で不正に富を蓄財したことを思えば、罰が当たったというべきか、皮肉というべきか。

忠恵王はなぜ女奴隷達を紡績に使役させたかというと、もちろん自分の欲望を満たすためでもあるが、紡績を行って絹織物を販売して私財を増やすためであったという。王自らが商業による利殖に関心があったようである。その後、忠恵王の姦淫や収奪などの悪逆非道と国政の混乱が元国皇帝の知るところとなり、ついに逮捕・流刑に処されて、移送途上で病死してしまう。一説にはみかんに当たったとも、毒殺されたともある。

忠穆王の代になって少しは国政が落ち着いたのか、王の侍講に参加し政事に復帰した。これ以降は特に大過はなかったようである。 多くの婢を忠恵王に奪われてしまったが、一時的に身を隠していて良かったかも知れない。もしこのまま政治の表舞台に留まっていたら、当時対立していた忠恵王派と親元派との争いに巻き込まれて、財産どころか生命の危険もあったに違いないからだ。そう考えると、売官の際に無官者に襲われぬように身を隠した時もそうだが、つくづく悪運が強いご先祖様であったと思う。


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