人物

奉氏系譜

奉由倹

9世。権力闘争をうまく泳いだ老武人。奉由倹(ほうゆうけん)の祖父は奉天祐で、父は奉質である。『同譜』『世蹟録』によれば、朝鮮王朝初期の1398年に、李成桂の腹違いの弟李和(りわ)と共に第1次王子の乱を、そして1400年の第2次王子の乱を平定...
奉氏系譜

奉仁輔

世不明。凋落の王に忠義を尽くす。奉仁輔(ほうじんほ)は、『河陰奉氏大同譜全』には掲載されていない。『河陰奉氏世蹟録』によると、田禄生(でんろくせい)という人が著した野隠逸稿(やいんいっこう)に登場している人物である。1361年、護軍(ごぐん...
奉氏系譜

奉文

8世。李王家接近の足掛かりを作りし者。奉文(ほうぶん)は7世奉天祐の次男である。字は明遠(めいえん)で、栢岡(はくこう)と号した。位階は通憲大夫(つうけんたいふ)まで昇り、版図判書(はんとはんしょ)を歴任した。字:成人した男性が名の他に持つ...
奉氏系譜

奉質

8世。大過なく出世した文人。奉質(ほうしつ)は7世奉天祐の長男である。高麗の忠定王(ちゅうていおう)2年(1350年)に侍学の職をはじめ、典客令及び閤門祗侯を歴任し、最終的に版図判書にまで至って銓衝(せんこう)を掌握したという。その史実から...
奉氏系譜

奉議

世不明。飢民救済請願を上書。奉議(ほうぎ)は、奉説と同じく『河陰奉氏大同譜全』には掲載されていない。こちらも『河陰奉氏世蹟録』によると、高麗史という高麗王朝の史書に登場している人物である。忠穆王(ちゅうもくおう)4年(1348年)2月、征東...
奉氏系譜

奉説

世不明。堰を決壊させた男。奉説(ほうせつ)は、実は『河陰奉氏大同譜全』には掲載されていない。ただ『河陰奉氏世蹟録』によると、高麗史という高麗王朝の史書に登場している人物である。1146年、巫女(みこ)の言葉に従い、内侍(ないし)の奉説を派遣...
奉氏系譜

奉天祐③

1343年6月、忠恵王(ちゅうけいおう)は新しい宮殿である北殿を築造した折り、これを満たす私的な奴婢を集めるよう臣下に命じた。その際に閔渙(びんかん)が人々から四種類の奴婢(ぬひ)を徴収するよう進言した。四種類とは上位の貴族などに献上された...
奉氏系譜

奉天祐②

奉天祐は一等功臣に賞されて以降、忠粛王の信任がさらに厚くなったので、王が病に倒れて自ら官職の任命ができなくなった際、代わりに宰相である尹碩(いんせき)の自宅で彼とともに任命を行った。また、金之鏡(きんしきょう)、高用賢(こうようけん)ととも...
奉氏系譜

奉天祐①

7世。再生利用の達人。奉天祐(ほうてんゆう)は6世奉君弼(ほうくんひつ)の子で、生没年不明である。特筆すべき功績としては、高麗の忠粛王(ちゅうしゅくおう)が元朝に入国して不在の間に、瀋王の王暠(おうこう)が謀反を企てようとした際、奉天祐は右...
奉氏系譜

奉佑

1世。河陰奉氏始祖。奉佑(ほうゆう)は、高麗睿宗元年(1106年)に仁川(インチョン)市の江華島河陰で生まれた。河陰奉氏始祖であり、初めて中央政界の官僚・貴族となった人物でもある。降誕伝説については奉哥池を参照してほしい。仁宗2年(1124...
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