奉哥池

奉哥池

全てはここから始まった。

奉哥池(ほうかち)は韓国の仁川(インチョン)広域市江華郡、つまり江華島に存在する池である。ちなみに、江華島は支石墓や韓国の建国神話、一時的な遷都など歴史の舞台にもなっているが、日本では江華島事件として有名な島である。

奉哥池 · 433 Bugeun-ri, Hajeom-myeon, Ganghwa-gun, Incheon, 韓国
史跡

世人からは奉哥池と呼ばれているが、河陰澤または竜淵池の別名もあり、江華文化財郷土遺跡第25号に指定されている。昔はとても広くて深かったが、長い年月が経つにつれて次第に埋まっていき、陽城の宗士である奉在徳(ほうざいとく)がその水源を疏通して土を盛って石で築造したところ、水は透明になり広さは約100坪程度になった。しかし近年は約33㎡の池がコンクリートで補修され、水面からの高さは約65cmしかなく、昔の面影を見ることが難しくなっている。池のほとりには子孫が建てた遺構碑がある。

河陰奉氏始祖誕生の地として、奉哥池の伝説は以下の通りである。

―高麗睿宗元年三月七日明け方のこと。河陰山の麓に住む老女が澤から水を汲んでいたところ、紫雲が天から降りて池に届き、波音が雷のように轟くのを見た。すると突然、石函が水面に浮かんできて岸辺に漂着した。老女が函を開けてみると、中には美しい容姿の男の子が寝ていた。老女は自分では育てることができないと思い、王に献上した。王はこれを大変気に入り、宮中で養育することにした。王は奉(ほう)という姓を与え、王室に貢献することを願って佑(ゆう)という名前をつけた。奉佑は聡明で才知に恵まれた人物に成長した。仁宗二年、科挙に合格して官職に就き、衛尉寺卿、政堂文学、左僕射にまで昇進し、河陰伯の爵位を授けられた。―

当時の暦はいわゆる太陰暦なので、高麗王朝の睿宗元年三月七日を現在の西暦に直すと、1106年4月12日になるであろうか。日本では平安時代で、中国は北宋、ヨーロッパでは「カノッサの屈辱」を味わった神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ4世が死去した年になる。

あくまでも伝説であるので非科学的な部分は否めないが、我が一族にもこういった逸話の一つや二つがあることは、とても誇らしいことではないか。ただ、池の当時の面影が段々と消え失せていて、何とも口惜しい。当時からの地元の人々も同じ思いではないだろうか。というのも奉哥池という名称を考えるに、哥という漢字は文字通り歌という意味の他に、親しい関係の年長男子への敬称の意味もある。従って奉哥池を現代風に訳せば、奉兄の池、奉さんの池ということになろうか。もしそうだとしたら、それほど地元に親しまれていた池もしくは一族であったのであろう。臣も、河陰澤や竜淵池という名称よりも奉哥池の方を取りたい。

河陰奉氏:韓国語で하음봉씨(ハウムボンシ)。「河陰」は本貫つまり一族の出生地を表す。

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