奉質

奉質

8世。大過なく出世した文人。

奉質(ほうしつ)は7世奉天祐の長男である。高麗の忠定王(ちゅうていおう)2年(1350年)に侍学の職をはじめ、典客令及び閤門祗侯を歴任し、最終的に版図判書にまで至って銓衝(せんこう)を掌握したという。その史実から推測するに、公の事績や功績は非常に大きかったと考えられるが、文献の保存がなく、旧譜には官爵と配位のみが記録されており、私たち後孫はその行跡を辿る方法がないのは残念であると『同譜』には書かれている。また彼の墓は、白川の馬城山にあると伝えられている。

忠定王:第30代高麗王(在位1349年〜1351年)。
侍学:経典の知識だけでなく、高い道徳心と才能を持つ文人が選ばれ、世子に学問を教える役割。
典客令:外国からの使節の接待や外交を担当する官職。
閤門祗侯:宮殿の門を守衛する官職。
版図判書:戸口と税金などを司る長官。
銓衡:官吏などの人事権。
白川:朝鮮民主主義人民共和国の黄海南道にある地名。

また1350年、忠定王は自身の師傳や侍学に対して曲宴を催したとの事で、その中に奉質も末席を賜った。それだけ王からの信任が厚かったのであろう。

師傅:貴人の子弟を教え導く守役。
曲宴:宮中においてごく内輪だけで行う小さな宴会。

このように、儒学の文人として順調に出世し、大過なく宮中生活を送っていた奉質ではあるが、残念ながら1年後に忠定王は暗殺されてしまう。弱冠14歳であった。その後、奉質が宮中の権力闘争に巻き込まれたかどうかは全くの不明である。

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