奉由倹

奉由倹

9世。権力闘争をうまく泳いだ老武人。

奉由倹(ほうゆうけん)の祖父は奉天祐で、父は奉質である。『同譜』『世蹟録』によれば、朝鮮王朝初期の1398年に、李成桂の腹違いの弟李和(りわ)と共に第1次王子の乱を、そして1400年の第2次王子の乱を平定した功績により、1401年に「推忠奮義翊戴佐命功臣」(すいちゅうふんぎよくたいさめいこうしん)の称号を授けられた。官職は兵曹判書、吏曹判書を経て、嘉善大夫(かぜんたいふ)及び崇政大夫(すうせいたいふ)、判中枢府事(はんちゅうすうふじ)に至った。卒するに及んで、黄海道白川郡虎山に瓦の墳墓を築いて礼葬され、周囲40里の牌(はい)を賜った。

白川判中枢公山全図

第1次王子の乱:王位継承を巡る王子間闘争。5男芳遠が8男芳碩を殺害し、正統な継承者を排除。
第2次王子の乱:王位継承を巡る王子間闘争。4男芳幹が起こした乱を芳遠が鎮圧し、王位継承が確定。
兵曹判書:軍事を司る機関の長官。
吏曹判書:人事行政を担当する機関の長官。
嘉善大夫:従2品の品階。
崇政大夫:従1品の品階。
判中枢府事:国王の諮問機関の高官。
牌:標識。

建国間もなく2度にわたる乱は、宮廷内及び政官界を動揺させるには充分であったが、結局、才があり、冷徹で野心家の芳遠が太宗として王位に着き、王権を強化してその体制を盤石なものにした。

乱時の年齢が不明であるが、高麗の忠穆王時代に入朝とされるので、恐らく相当な高年で60〜70歳くらいと思われる。血のつながった兄弟である王子同士が血で血を洗う争いにおいて、父の弟という安全地帯である李和に、奉由倹が付き従うことができたのは、叔父の奉文が娘を李和の次男に嫁がせた関係であろう。運が良かったと言うべきか、はたまた奉文の功績と言うべきか。とはいえ、この奉由倹も次の奉一門の布石を打つ事ができたのであった。

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