9世。高麗朝に最後まで忠節を貫いた儒学者。
奉由禮(ほうゆうれい)は、高麗末期から朝鮮初期の文臣。諱(いみな)は由禮、字は立攸(りつゆう)、松蹊(しょうけい)と号す。文謙公・奉天祐の孫である。父の奉文は版図判書を務め、母の幸州奇氏は徳陽君・奇轅(きえん)の娘であり、もう一人の母である全義李氏は大提学を務めた文義公・李彦冲(りげんちゅう)の娘である。
奇轅:妹である奇皇后(きこうごう)の権勢を笠に横暴を働いたが、恭愍王によって粛清された。
李彦冲:西林李氏始祖。高麗の忠烈王、忠宣王、忠肅王、忠恵王に仕えた。
『高麗史』によれば、恭愍王3年(1354年)2月13日に生まれた。幼少の頃より孝行心と友愛心に厚く、成長すると8歳にして文章に優れ、気宇は広大で、風采はさわやかで明朗であった。
当時の人々は、彼に大きな期待を寄せ、「将来、明堂(朝廷)で活躍するだろう」と目されていた。16歳で科挙に登第し、政堂文学・典理判書を歴任した。
典理判書:法律・裁判・刑事行政などを扱う機関の大臣クラス。
しかしこの頃、朝廷に上疏して仏教を排斥する激しい意見を述べたため、王の不興を買い、郷里に左遷された。故郷に戻ってからは、門徒たちと経伝を論じ合い、性理学(朱子学)を深く研究し、二程(程顥・程頤)全書を読み解いた。李穡や鄭夢周(ていむしゅう)とは日々親しく付き合い、道義の交わりを結んだ。鄭夢周は常に奉由禮を理学の宗として持ち上げ、「世が衰えても道がなお我らの間に存するのは幸いである。」と語った。
二程:中国北宋時代の儒学者、程顥(ていこう)・程頤(ていい)兄弟。
鄭夢周:高麗末の儒学者。李成桂と対立し、後に暗殺された高麗の忠臣。
朝鮮王朝に入ってから、宰相・裵克廉(はいこくれん)が太宗(たいそう)に密かに奉由禮を推薦し、たびたび吏曹判書(りそうはんしょ)として召されたが応じなかった。ますます聖学(儒学)を研究し、毎年の初めには高麗太祖の王陵に参拝した。
太宗:第3代朝鮮王(在位1400年〜1418年)。
裵克廉:朝鮮前期に開国一等功臣に列せられた功臣であり文臣。
吏曹判書:官僚人事を司る機関の長官。
老年に至るまで一度も時事を語らず、
「毎望松華泣怊帳」
松の華を望む毎に、帳を悲しみ泣く
という詩を残した。人々は彼を「河陰夫子(ふうし)」と称した。65歳で高陽里の自邸にて天寿を全うした。その後、哲宗13年(1862年)に士林(儒者・官僚集団)の公議により、萬谷祠に祀られた。
夫子:先生の意くらいか。
松は東アジアにおいて不変、節操、忠義を象徴し、帳は夜や終わりを表す。不遇の晩年に生まれた、高麗に対して忠節を貫く覚悟とその王朝の終焉を嘆く詩は、その情景を思い浮かべると臣の胸を打たずにはいられない。
奉由禮は左遷で済んだが、儒学者として己の思想・信念に基づいて正しきを行うことは、なかなか難しいものだと改めて痛感する。権力者の機嫌を損ねては出世栄達はおろか、下手をすると文字通り首が飛ぶ。さて翻って今般、己の義とと取り巻く社会・組織をどう調和していくか、思案するはここぞかし。
